20年以上つかっている目覚まし時計の秒針は折れている。折れているというか、取れている。3~4年くらい前、誤って時計を倒してしまった際に外れたまま、秒針は時計の下部で横たわっている。
高価な腕時計とかには興味がない(そもそも買うお金もない)が、私は時計を見るのが好きだ。時間が知りたいとき、ふと目に入ったとき、自分の知らない現在の時間を指し示してくれる。スマホの時計はデジタル表示だが、それさえ無意識のうちにアナログの時計盤の絵面に変換しているような気さえする。
秒針のある時計、その中で唯一動きをすぐに実感できるのが秒針で、私は秒針の動きを追いながら5秒ごとに12個の数字の上にその線が入るのを楽しむでもなくただ眺めるという――そんな、遊びでもない遊びをよくする。してしまう。
(いま書いていて、秒針が主役の時計を思い出した。水泳教室のプールサイドと「笑っていいとも」のいいとも選手権で見たことのある、赤い秒針が滑らかに回る時計。あの時計は確か、頂点が12ではなく60になっている)
小学校高学年のころは黒板の上にある時計を見つめて、よく先生から怒られた。今の時間が知りたいだけで、自分としては授業の終わりを気にかけているつもりはなかったけれど、先生から見ればそう見えたのかもしれない。
時計の良いところは、やっぱり時間を確定してくれるところだと思う。
時間というのは不可視で不可逆だ。
日付や年齢、経験あるいは未経験、衰えなど。初めて腰痛を経験する私は、自分も老けたなあ、年をとったんだなあと思うけれど、それは若者→おっさんへの時間の流れを感じているだけで、時間そのものは目に見えない。
学生時代に戻れたなら、ああしてこうして過ごすんだ――現在の私がいくら綿密に計画を立てたとしても、時間を巻き戻すことはできない。
――何時何分何秒? 地球が何回まわったとき?
幼いころ、自分に都合の悪いことがあると、それは一体いつのことなんだ、正確に示してくれよ!という憤りをこめて、そんな風に時間をたずねたりもした。
よくある子どもの言い草だけれど、時間というのが目に見えなくて、相手に示すのが中々難しいという感覚がそのような言い方を生んでいるのかもしれないなあと、いま思った。(いま、っていつだ?)
私の目覚まし時計。
秒針は取れてしまったが、時は刻み続けている。だから今も現役で(スマホのアラームと併用して)つかっている。時計に耳を近づけてみると、チクタク・カチコチとは聞こえないがコッコッと1秒ごとに音を鳴らしている。無機質な生命――そんな言葉を浮かべてみる。
長針と短針からは離れてしまったが、秒針のもとである部分は動きをやめず、時を刻み続けることで正確な時間を目に見えて与えてくれている。
時計盤の下に転がる秒針とその上で回る長針と短針。私はそれを見て、現在の時間を知ることができる。