本を読むのを途中で挫折した経験がほとんどない、俺は。薄い本も厚い本も、面白い本はもちろん、つまらない本でも読むのを諦めはしない。最後まで読む。
俺は町田康の『告白』や『宿屋めぐり』『ホサナ』という長編小説を読破した。
舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』上中下も文庫本で読んだ。
ドストエフスキーの『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』も少し前に読んだ。長い長い作品だった。
まあ、ここらへんは俺的に面白いから、長い作品でも読み終えて当然。
ナルシシズムを強く感じて「あまり合わないな」と思う作家の本も、しっかり読了した。
「この本読むの、途中で挫折しちゃいました」そう言う人の気持ちが、俺にはわからない。つまらなくても読むのが重要なときだってあるのではないか。(←”のではないか”って!)
俺は小説以外にも色んな本を読む。物語だけでなく、学術書やノンフィクションなど様々な本を読むことで俺は――『鉄男』の身体がどんどん大きくなってくみたいに――知識とか考える力とか物事を見るときのセンスとか様々な能力を身につけていく。
マルクス・ガブリエル他『新実存主義』、これも読了した。心と脳の関係について――俺はあんまり頭が良くないから何が書いてあるのか全然理解できなかったけれど、それでも全部読んだ。
俺はどんな本でも最初から最後まできちんと読む。俺が読書家Xならキメ台詞はどうなるだろう。
「俺、読了しなくないので」
(↑二重否定(笑))
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本を読むのにどれだけのページをめくり、どれだけの時間を費やしてきたのだろう、私は。いや別に、後悔している訳ではない。これからも本を読むし、読書以上に時間を惜しむことなんて、私にはあまりないから。
ただ、たまに私の中から私に囁く声が聞こえる気がする。
「お前は活字を追っているだけで、頭や心で理解できていない。いつかの読書行為が、その経験が血肉となっている――みたいに思っているみたいだけど、お前の場合はそうじゃない」
神経質だから、間がない。私は、最初から読まない or 全部読むしか、できない。全部読むといっても、Eテレの人気番組みたいにただただ目で追うだけ。活字を追うだけで理解できてない、理解しようとしていないから私のピタゴラスイッチはずっと入らないまま右往左往を彷徨っている。
難しい本やつまらない本を読んでいると、水中で息をとめているような感覚になるときがある。
≪私は……我慢しています。≫???
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読んだ本は全部マンガばかりじゃないけど次の日全部忘れちゃう、自分は。
「どうなっちゃってんだよ!」
岡村ちゃんの声は響かない。
自分のブログに書いた、本の感想や映画の感想を見ればわかる。酷い。ストーリー(プロット)を追っているだけで、これは感想でも何でもない。何も得ていない。糖質ゼロのビールは画期的だけど、理解力・感受性ゼロの文章ほど箸にも棒にも掛からないものはない。
自分だって、きちんとした感想の書ける人間になりたい。でも環境とか状況が自分のベストじゃないことが多いから、作品を読んで・見て全部を吸収するのが中々できない。
誰も来ない部屋で時間も気にしなくていいなら。自分は内容をきちんと理解して、その上で自分なりの感想を書ける。と思う。
宅配便の方がチャイムを鳴らすこともなく、昼ごはんや夕暮れを気にする必要もないなら。『ドラゴンボールZ』の精神と時の部屋みたいな部屋に籠もって本読んだり映画見たりできるなら、自分だって――
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要点がつかめない生涯を送って来ました、ボクは。
小学1年か2年生の頃だったと思います。『ドラゴンボールZ』の放送翌日、友だちはみんな会うなりこう言いました。
「悟空見た?」
ボクはみんなのその言い方に変な感じを感じていました。
(悟空は番組名じゃない。「ドラゴンボールZ見た?」が正解なんじゃないか)
ボクはボクの感じを正しいと思っていましたが、それを友だちに言ったりしませんでした。ボクのほうが正しいんだ――その想いは心の中にしまっていました。
でも、今になってわかりました。今さら。今ごろ。間違っていたのはボクの方で、正しいのは友だちみんなの方でした。
6才か7才の子どもにとって『ドラゴンボールZ』は、孫悟空の大活躍を見るだけの番組です。悟空が元気玉でやっつけた!悟空がスーパーサイヤ人3になった!一番大事なのはそこでした。
「悟空見た?」
開口一番にそれが言える友だちみんなは、要点をつかむなんてことを気にすることもなく、肝心なところをきちんと理解できていた。そう気づきました。
ボクが本を読んだり映画を見たりしても要点がつかめないのは、あの頃からすでに始まっていたのかもしれません。