以下、過去の記述より。
カッコ内は私が読み終えた日付です。
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■鴻池留衣『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』
(2021/5/20)
著者の作品を読むのは初めて。
ビックリさせられて、この作品をまだ消化できている感じがしないけれど、感想を書いてみる。
概要
ダンチュラ・デオというバンド。
本作は「ダンチュラ・デオ」のWikipediaページという体裁をとっていて(Wikipediaの目次がそのまま本の目次になっている!)その手法にまず驚く。
バンドメンバーは喜三郎(ギター)とアルル(ベース)、そして僕(ボーカル)。この僕は≪※「僕」というアーティスト名である≫ため、これによって作品の深みが増し増しとなる。
この小説の柱の一つになるのが、ダンチュラ・デオというバンドは喜三郎がかつて存在したと信じている架空のバンドで、彼ら3人はかつてのダンチュラ・デオを元ネタにしたコピーでしかない。って設定(ごっこ遊び)。
作品は前半と後半で大きくわかれる。
前半はダンチュラ・デオの(目次にある通り)来歴やキャラクター設定、メンバーたちの出会いやバンドの音楽活動と認知度の上昇、そして喜三郎のつくったダンチュラ・デオの設定に僕がノッた状況などが描かれる。
後半、物語は一変する。
ありがちな――つくりものの――陰謀論めいた展開が続き、それは低予算のスパイ映画なんかを想起させる。登場人物たちは、まるで双六のコマのように見えてしまう。と書くと、後半部分がヒドいように思えるかもしれないが、この後半の荒唐無稽・意味不明な展開を描いた点こそが、この小説で最もビックリさせられた手法。
Wikipediaの特徴
Wikipediaの大きな特徴は次の2つだと思う。
1. 誰もが編集できる(できてしまう)こと
2. 誰もがネット上ですぐに(無料で)見られること
1.の誰もが編集できる(できてしまう)こと。Wikipediaはオープンなつくりで、誰もが項目の内容を加えたり書き換えたりできる。この作品の特に後半はその特徴が大きくでていて、CIAとか巨大な組織に狙われたり敵対するというのが、(前半の)基本設定をもとに誰かが面白半分で書いたような印象をもたらす。
対象・元ネタ・素材――言い方は色々あるが、それが目に入った途端、人は対象をイジり始める。ネット上の大喜利合戦や二次創作が生まれていく。イジり方はイジる人(=誰か)によって異なるから、この作品後半の場合はスパイ映画風だったけれど、例えばそれはバンドメンバー3人の三角関係や喜三郎と僕のボーイズラブ、あるいは音楽バトル劇として地方→日本→世界(宇宙)トーナメントを闘っていく展開だったかもしれなくて、「ダンチュラ・デオ」のWikipediaを(その時点で)編集した人が書いたのが、無数の中のたまたま一つであったにすぎない。
次に2.誰もがネット上ですぐに(無料で)見られること。大学で初めてレポート課題がでたときに教授が「Wikipediaは根拠がない情報もあるので参照しないように」と言っていた。だがそれを忠実に守っている人は少なく、学生はWikipediaを見る。学生に限らず、日常でわからない「項目」があれば多くの人がWikipediaをすぐに確認する。紙の辞事典でなく、ネット上のそれはいつでもどこでも見られるから。
誰もが見るモノは、後世に残っていく。
レポートの参考URLに挙げられない、公式には出せなくても、多くの人がそれに頼っているから。(一度ネット上にあげられたモノには”消せない”(≒どこかで残り続ける)という特性もある)
まとめ
最小限の元ネタ(の情報)さえあれば――しかもそれが架空の設定、ごっこ遊びだったとしても――その対象(項目)を誰もが勝手に書き換える。書き換えられた物語は、真偽の必要性も生じないまま、誰もが閲覧(消費)していく。そしていつの間にか――アルルが偽アルルになったみたいに――また物語は書き換えられてしまう。
≪急いで全文を保存しておくように≫
小説の最後の言葉が、皮肉な警鐘となって響いた。