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【東日本大震災】2011年3月11日(金)の日記より

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東日本大震災から10年がたちます。
震災および震災に関連して亡くなった方々のご冥福をお祈り申しあげます。

以下の文章は、今日から10年前、2011年3月11日の私の記述になります。
正確には、翌日の3月12日の夜中に書いたものです。

当時の私は24才、神奈川県川崎市の実家に在住していました。
契約社員として都内で働いていた私はあの日、有給休暇を取得していました。
固定シフトの仕事で、他の人に代行を頼まないと休めない仕事でした。

※津波に関する文章があります
※個人名などは伏せています

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2011年3月11日(金)
休日。有休を使っての。
昼前に起きて、色々あって14時すぎに昼食をとり、歯を磨いている途中に、起きた。

地震が。

15時前(14:46、47頃)にそれは起こった。
俺はリビングのテーブルで歯を磨いていた。
隣のソファに母、さらに隣の和室で父が横になっていた。

戸や窓がガタつく音を耳にして、母が「地震じゃない?」と言った。
左手で歯ブラシを握ったまま俺は「風でしょ、多分」と素っ気なく述べた。

直後、強い揺れが生じ、我が家を震わせた。
かなり強い揺れだった。
俺の歯ブラシを動かす手が止まり、体を横たえていた父も「かなり強いな」と言いながら起きあがった。
母は閉じていたドアーを念のために開けた。
時間にしては短かったのだろうが、かなり長い間、揺れを感じていた。

本当に微かに、膝が震えた。
俺は臆病だ。

玄関を開けに一階におりた母に「お母さん、大丈夫?」と少し大きな声をかけた。
階段のこけしが落下する音が目立ったためだ。
俺も父も母も怪我を負ったりはしなかった。
家も、大丈夫だ。

テレビを1チャンネルに合わせると、地震速報が流れていた。
(これを書いている3/12(土)AM1:18まで、テレビはずっと地震情報を放送している)

東北地方、宮城県を中心に震度7の地震が発生と、テロップが画面にあった。
マグニチュードは8.8※。
※3/14(月)にM9.0だったと訂正された

父のケータイが音を発した。
消防からの緊急メールとのこと。
神奈川県東部は震度5弱だったようだ。
震度5以上の地震発生時は職場に行かなければならないらしく、父は自転車で消防署に向かった。

地震が起きて、大変だ。
我が身、自身の住む地域が心配だ。
普通そうだろう(と、思う)。

家をあとにする父親の姿を目にして、消防士という父親の仕事に触れた。
と言うより父の仕事ぶりを感じた。
何が起きたかを少しでも把握しようと俺と母はテレビ画面を見つめていた。

以下は、少しずつ割愛して書く。
断片的になってしまうかもしれないが。

震源地の東北で、津波が起きた。のを映像で見た。
海の船が家が車が木材がどんどん大きくなって流されていく。
かなり巨大な、津波。

巨大な流れは陸地を進んでいき、田畑やビニールハウスものみこんで汚泥のようになっていた。

道路を走っている車をその巨大な汚泥が覆う瞬間を目にした。
つい先ほどまで動いていた車。
中には人がいるに決まっているだろう。
何も思えなかった。虚無。

「可哀想」とか「自分でなくて本当に良かった」などとも考えられない。
そういった感情は少し遅れて(ほんの少し遅れて)やってくる。
(少なくとも、俺の場合は)

津波は第一波だけでなく、その後の第2・3波…と続くのが本当に恐ろしいところだと、知った。

電話やメールが通じず、何回も試みた。
本当に何度も。
夜には三丁目公園の公衆電話からもかけたが、結局通じず。

〇〇(※次男の兄)からは、電話がきた。
母は川中島の〇〇(※親戚)の家を見に行った(おじさんもおばちゃんも無事だった)。
〇〇(※長男の兄)も、夜半にようやく連絡がとれた。
〇〇(※友人)も夜に連絡がとれ、無事だった。

●●●(※当時の仕事現場)で働いていた方々は交通手段がなく、●●●に泊まるとのことだった。
代行で入っていただいたAさんに、本当に申し訳なく思う。
Bさん(※当時の同僚。この日は社外の施設で健康診断を受けていた)は、健康診断の受診施設に泊まるとのこと。

停電などの被害はあったようだが、みんな無事で本当に良かった。

地震から一時間後くらいに階段をあがり自室に行くと、机の上の物やクローゼットの文庫本などが、散乱していた。
我が身が無事なことを思えば、この程度――けっこう、散っているが…――大した問題ではないと、強く思った。

宮城ではなく、神奈川だったら――、もし自分があの場所にいたら――
どうしても、      そう思わずにはいられない。
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