高校1年の最初の数学の授業は、詩を読むことから始まった。
「先生!余った紙はどうすればいいですか?」
一番後ろの席に座る生徒から数学の先生が回収した用紙には、先生本人がつくった詩が印刷されている。
数学にも読解力は大切だと、数学の先生が奇をてらって”かましてきた”わけではない。
「先生、よく詩を書いているんです」
まずは皆に先生のこと、知ってもらおうと思って――と先生。
自分で書いた詩を生徒みんなに読んでもらう、先生なりの自己紹介らしかった。
当時15才の私は、先生自作の詩が印字された用紙に目をおとした。
★☆★
War is over.
長い、長い戦いだった。
戦いの相手は、ごぼう茶だった。
私 VS ごぼう茶。
ごぼう茶がいけない訳ではない。
「あじかん」さん(ごぼう茶のメーカー)に罪はない。
誤解を招くとよくないので、訂正しておく。
正確には、私 VS 親類から送られ続けてくるごぼう茶、だ。
戦いは1年にも及んだ。
ガンダムの一年戦争は架空の戦争だが、私とごぼう茶の戦いは毎日がリアルの連続だった。
★☆★
数学の先生が書いた詩は、4つくらいあった。
そのうちの一つを読んでみる。
「影」というタイトルの詩。
アイツは逃げても逃げてもついてくる
俺からぴったりくっついて離れようとしない
アイツは逃げても逃げてもついてくる
★☆★
ちょうど去年、秋の終わりくらいだった。
親類から初めてのごぼう茶が届けられたのは。
頼んでは、いなかった。
ごぼう茶の話さえしていない。
そもそも私とその親類は、かなり疎遠な関係だった。
無下にするわけにもいかず、親類には感謝の気持ちをメッセージとして送った。
それから2週間ほどが経過すると、再び届いた。
ごぼう茶が。
ティーバッグタイプのごぼう茶は、一袋あたり30包入りだった。
初回の2袋で60包。
ほとんど飲まないうちに、2袋追加で120包。
無視すればもう送られてこないかなと考え、親類にはメッセージを返さなかった。
★☆★
数学の先生が自作した詩「影」。
自身についてくる影という存在を”アイツ”と呼んでいるのが印象的だった。
入学して間もない私がそのとき、他のみんなにぴったりくっついてウザがられる存在にはなりたくないと思ったかは覚えていないが、私の目は配られた用紙の文字を追うことをやめた。
それからの高校生活における数学の授業で、私の成績はいまひとつだった。
先生の教え方が悪かったわけではない。
単に私の理解力が乏しく、努力をしなかったせいで、授業についていけなくなったからだ。
★☆★
あれから何度、親類からごぼう茶が送り届けられただろう。
ごぼう茶に罪はないので毎日飲んではいる。
ただひたすらに飲む。
だが、それは捨てるのがもったいなく、早くごぼう茶の在庫をなくしたいがための行為だった。
お湯を沸かす。
マグカップにお湯を注ぐ。
2分待つ。
ティーバッグを捨てる。
できたごぼう茶を啜る。
ひとつひとつの工程を機械的にこなしていく。
私にとって、ごぼう茶をつくって飲むことはただの作業と化していた。
まるで感情のない愛撫。
戦いが終わった今だからこそわかる。
私はなんて、愛のない行為をごぼう茶にしてしまっていたのかと。
★☆★
数学の授業は苦手だった。
自作した詩を印刷して、初回の授業で生徒全員に配る先生も、正直苦手ではあった。
私はキーボードを叩く指を見つめる。
こんな駄文をブログに書いて、インターネットを通じて世界中に発信している。
先生のことを茶化すような文章しか書けない大人に、私は、なってしまいました。。。
★☆★
一向に減らないごぼう茶に、私は辟易していた。
飲んでも飲んでも、アイツはついてくる。
何故か私は高校1年の数学の授業で読まされた、先生の詩を思い出していた。
アイツは逃げても逃げてもついてくる
俺からぴったりくっついて離れようとしない
アイツは逃げても逃げてもついてくる
「アイツを断ち切るしかない!」
ごぼう茶を送ってくる親類には、以前からやんわりと断りを入れているつもりではあった。
が、その後も何度も何度もごぼう茶は届いた。
まるで、アイツのように!
親類には、「もうごぼう茶を送らないでほしい。飲みきれない」という明確なメッセージを送った。
それから、私のもとにごぼう茶が届くことはなくなった。
朝の食卓に置かれているマグカップ。
もうそこに、ごぼう茶の姿はない。
毎日毎日、ひたすらごぼう茶を飲み続けねばならない、私の戦いは終わりを告げた。
まばゆい朝の陽ざしが注がれたマグカップからは、アイツがのびていた。